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財団法人 清和国際留学生奨学会
女真人、歴史と農業 京都大学地球環境工学科
徐  鶴    中国
ジョ カク 

 女真族は、宋代に北方を支配していた遼から独立した金という国を興した民族です。金は同じ北方民族の国である遼を滅ぼし、さらに宋の北半分(北宋)を征服して、中国を二分する強大な国家となりました。この女真族は、宋代末期を舞台にした北方謙三先生の「水滸伝」とその続編である「楊令伝」に登場します。純粋な遊牧民の女真族である「生女真」、漢民族化した農耕民族の女真族である「熟女真」に分けて、呼ばれていました。金は蒙古民族の元に滅ぼされましたが、その後、女真族は明代ではどうなったのでしょうか?蒙古民族との分岐点が農業による定住化であった事が留学生の徐鶴さんの鋭い考察で明らかになりました。

  女真人、すなわち後の満州族にはつねに狩猟民族という冠が付く。確かに女真人の生活において狩猟は非常に重要な地位を占めていたが、必ずしもそればかりでは括れない。
 まず、明代、現代の中国東北部(満州、マンチュリア)東南部に居住していた建州女真(マンジュ五部)と海西女真(フルン四部)は主に撫順で貿易を行っていた。女真側からの輸出品目は馬(どうもモンゴルから手に入れた馬を転売していたらしい)、貂皮、人参などであったのに対し、明側からは牛、農具(すき、くわ)、衣類が大量に輸出されている。また朝鮮との貿易でも同様な事実がみられるという(河内良弘著「明代女真史の研究」)。なお、東北地区で発見された金 代女真人の遺跡からも大量の鉄製農具が出土している。
次に、明代の建州女真人はモンゴル人のような遊牧民とは異なり定住生活を営んではいたが、しばしば部族単位での大移動を行っている。だが、その移動時期は戦争や災害による緊急避難的なものを除いて、すべて、3,4月ごろに集中している。
    当時(現在でもそうだが)の東北部では旧暦4月(新暦5月)中旬頃から秋8か9月(新暦10月)頃までが農業シーズンとなる。その後、秋の収穫が終わると、東北はすぐに厳冬期へと突入し、移動や野営には全く不向きとなる。(実体験から言えば冬の東北での野宿は死に直結しかねない)。年が明けて旧暦2、3月頃に雪解けが始まり、やっと移動が可能になる。すなわち、農業への影響を及ぼさずに移動を行うには3月から4月を選ぶしかない。
 明代女真人、特に建州女真の生活には農業が非常に大きな比重を占めており、移動生活においても農業を無視することは不可能だったのである。(河内良弘「健州女真の移動問題」)。
 第三に明代に建州女真を訪れた李氏朝鮮の使節は異口同音に至る所で農業が行われていることを報告している。例えば朝鮮の使節、申忠一は1595年に建州女真のヌルハチを訪問しているが、街道沿いの平地はほとんどが耕地となり、道中至る所で山の頂まで土地が耕作されていることを報告している。
 女真の間では農業生産が非常に盛んであって、生産全体にしめる農業の比重が非常に高かった。女真族は狩猟民族あるいは半農半猟とよばれるが、実際のところは農業が生産手段の主体を占めていたようである。
 後に後金(清朝)成立後、女真族(満州族)は遼東、さらには中原へと進出していくが、その際にモンゴル的は制度、慣習を守り続けた元とは異なり、清が漢族の文化を比較的スムーズに吸収できた理由として、彼らの農業経験からくる農業社会への理解を挙げる者も多い。

このレポートは、徐鶴さんのレポート「私の故郷―瀋陽」からの抜粋です。




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